外交上の作用と没落
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/01 13:52 UTC 版)
「総理各国事務衙門」の記事における「外交上の作用と没落」の解説
総理衙門には外交政策の決定権はなく、あくまで決裁者は皇帝(事実上は西太后)もしくは軍機大臣であった。だが設立当初は恭親王が首席軍機大臣を兼ねていて、他の軍機大臣達にも睨みが利いたため、ほとんどの事案は素通り状態であった。 1860年代、恭親王主導の総理衙門は効果的に機能した。北京条約の対応をこなしつつ、1868年には天津条約の関税問題に取り組んだ。またその一方で同文館出身者の欧米派遣に取り組んだ。1866年には総税務司ロバート・ハートの帰国に随伴する形で、斌椿(ビンチュン)を代表とする最初のヨーロッパ使節団を派遣している。また、1867年にはアメリカ公使アンソン・バーリンゲームを欽差大臣に任命し、欧米諸国に派遣している。 だが、総理衙門の推進役だった恭親王が西太后によって排斥され、1870年に李鴻章が北洋通商大臣に就任すると状況は変わってくる。総理衙門のメンバーも李鴻章も同じ洋務派であることに違いはないが、貿易港全体を管轄するとはいえ既に全権とは言えない総理衙門に比べ、貿易港は天津に限られるとはいえ李鴻章は欽差大臣として全権を持っている。広州貿易が中心だった頃ならともかく、既に各国公使は北京に常駐しており、貿易の中心も北京から近い天津へと移っている。そうなると各国公使としては、天津で実権を持つ李鴻章と話をした方が早いのである。こうして実質的な外交の中心は、総理衙門のある北京から北洋通商大臣のいる天津へと移っていき、日清戦争の頃には天津の李鴻章こそが事実上の外務省となっていた。 創設時に比べ著しく影響力の低下した総理衙門は1901年、義和団の乱後の北京議定書の条項に従って廃止され、新設の外務部(中国語版)が創設された。
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