夏鶯人間(ひと)は麩のよう塵のよう
作 者 |
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季 語 |
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季 節 |
夏 |
出 典 |
「海程」 |
前 書 |
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評 言 |
やわらかでしっとりした麩の食感は、生麩にしろ焼麩にしろ決してメインにならないが、用途によって欠くことのできない食材である。そして「麩のよう」と、なめらかな気分のままリズムの流れに乗り、さらに、「塵のよう」と続くとき、軽快で冴えた展開が、読み手それぞれのイメージや思いをふくらませつつ、自己の内面を掘りおこす役を担っている。それが、実の手応えを感じさせるのだろう。 しかも作者は、導入に「夏鶯」を据える。 万物の精気いちじるしい季節に、長けたうぐいすの鳴き声。「夏鶯」一語の的確さがこの作品の眼目でもあり、自然界の呼吸そのもの。そこには命の息づく気配をありありと…。自然とはまさしく、こまやかにこころを通わせるほどいのちの気配が濃厚に伝わるのであろう。それは、心身が一瞬つかみとった意識へ、日常という共通性をまぶしつつ拡がる心情でもあろうが、作品においての核はこうして出来あがってくる。生あるものは、本来あるがままに自然へ包みこまれてこそ、説得力をもってくるようだ。 ここでは、麩も塵も決してでしゃばることはない、否、それどころか頼りなさを秘めつつやがては消えゆく儚さ、そんなひたむきな生と言葉の、まっすぐな交感がずしりと迫る。 それにしてもなんと手ごわいフレーズであろう。するどい感応力を生かした作者独特の表現は、堅固な作品構成と意識的なことばの斡旋を得てますます羽ばたく。そんな作品に魅せられて久しい。 |
評 者 |
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備 考 |
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