塔之原の成立と中世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 01:54 UTC 版)
塔原という地名は鎌倉時代より見え薩摩国入来院のうちであった。塔之原は塔原名、塔原郷、塔原村とも呼ばれた。平安時代から鎌倉時代初期までは伴氏の一族であった寄田氏の勢力下であった。千葉秀胤が一定地域の地頭を統轄する職である惣地頭に補任されたのち寄田氏は改易されたが、入来院氏(渋谷氏とも)の入来院定心が地頭に補任されると寄田氏は再び名主に補された。しかし、入来院氏による支配が強化される中で寄田氏と入来院氏の対立は深まった。しばらくして再び寄田氏は改易された。 南北朝時代の末期になると地頭職も入来院氏に渡り、戦国時代には樋脇城主の樋脇氏が明応年間から大永年間まで治め、永禄までは入来院氏の代官たる宮里氏が統治を行った。 麓の南西には入来院氏が川内方面の敵に備えるために構築した樋脇城があったが、応永3年(1396年)に島津元久の軍に攻められた。樋脇城について薩摩藩の地誌である「三国名勝図会」では以下のように記述している。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}樋脇城 塔之原村にあり、前門口は東に向ふ山城なり、前面は深田にて、後は小谷川あり、城外一町許南西に當り、高城といへるあり、又城外一町許西の方に當り、澗川を隔て助之城といへるあり、皆此城の砦なりといふ、當邑は、往古今の入來邑主入來院氏の所領にて、其徒當城を守る、應永三年、久哲公 恕翁公と謀て、入來院氏を伐つ、正月十一日、久哲公樋脇城を下し、十三日、前田城を下し、十九日、市比野城を下す、故ありて兵を罷て歸る —三国名勝図会巻之十一 文禄4年(1593年)に入来院氏が大隅国湯之尾(現在の伊佐市の一部)に移封され、以後は北郷氏の統治下となったが、慶長18年(1613年)に入来院氏の入来院重高が清敷領主として復封され、清敷のうちであった塔之原もその支配下となった。
※この「塔之原の成立と中世」の解説は、「樋脇町塔之原」の解説の一部です。
「塔之原の成立と中世」を含む「樋脇町塔之原」の記事については、「樋脇町塔之原」の概要を参照ください。
- 塔之原の成立と中世のページへのリンク