執筆の経過
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1834年、ゴーゴリ25歳のとき、中編小説『タラス・ブーリバ』、『肖像画』、『ネフスキー通り』、『狂人日記』、『鼻』などを執筆する。『タラス・ブーリバ』は中編小説集「ミルゴロド」に収録、翌1835年3月に出版された。同年5月、ゴーゴリはモスクワのポゴーディン邸で喜劇『結婚』の初稿を朗読し、そこでヴィッサリオン・ベリンスキーと出会う。ベリンスキーは「望遠鏡」誌に論文『ロシアの中編小説とゴーゴリ氏の中編小説について』を掲載、ゴーゴリの作品を紹介した。 1836年、ゴーゴリの戯曲『検察官』がサンクトペテルブルク及びモスクワで上演されてセンセーションを巻き起こす。社会的反響の圧力に耐えかねたゴーゴリは6月、国外に逃れた。ドイツからスイスを経て、いったんパリに落ち着くが、翌1837年3月にローマに移り、この地に1848年まで滞在することになる。 1839年に『タラス・ブーリバ』の改訂に着手。このころザポロージャ・コサックを主題とするウクライナ史劇の構想を立てる。翌1840年夏、ウィーンでウクライナ史劇に没頭するが、重い憂鬱性に陥り放棄する。ヴェネツィアを経てローマに戻り、『タラス・ブーリバ』の改訂のほか『死せる魂』、『外套』の執筆にあたる。1842年に『タラス・ブーリバ』を再改訂。改訂版は作品集第4巻に収録され、翌1843年に出版された。ゴーゴリ34歳。
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