国際建築設計コンペティション・経営委員会
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「ポンピドゥー・センター」の記事における「国際建築設計コンペティション・経営委員会」の解説
1970年8月26日、閣議により国務院評定官のロベール・ボルダスが「ボーブール地区センター実現のための代表」に任命され、国際建築設計コンペティションを開催し、ボーブール地区センターの建設を管理するための委員会を立ち上げた。設計コンペの審査委員長を務めたのは建築家のジャン・プルーヴェ (1901-1984) であった。1971年7月15日、応募作品数681点からレンゾ・ピアノ、リチャード・ロジャースおよびジャンフランコ・フランキーニのプロジェクトが選出された。ピーター・ライスがディレクターを務めるアラップ社のパートナーであった3人は、早速、ボルダス委員会事務局が入った建物内に事務所を構えた。 1972年1月、ロベール・ボルダスが「ボーブール・センター公施設法人」の代表に任命され、後に同センターの文化活動を担うことになった人材(=実現者)を集めて「実現者委員会」を設置した。この「実現者委員会」はセンター完成後に「経営委員会」に移行した。 ポントゥス・フルテン(フランス語版)が3年契約により国立近代美術館の館長に任命された。ジェルマン・ヴィアット(フランス語版)はフルテンの補佐として、現代的かつ国際的な新美術館構想を担当した。公共情報図書館の初代館長ジャン=ピエール・セガン(フランス語版)は既に1967年から本プロジェクトの実施責任者であった。フランソワ・マテイは1968年に創設した産業創造センターの会長として参加した。 1973年3月20日、閣議により数年にわたる事業計画と予算案が承認され、これにより、文化省の経常予算のほか、特別基金が設定された。 さらに、「ジョルジュ・ポンピドゥー国立文化芸術センターの設立に関する1975年1月3日付法律第75-1号」により、正式名称が決定した。
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