国替えと角館天寧寺の開基
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 09:59 UTC 版)
「天寧寺 (仙北市)」の記事における「国替えと角館天寧寺の開基」の解説
会津を追われた蘆名義広は実兄佐竹義宣を頼って常陸国に逃れ、そののち、豊臣秀吉から常陸江戸崎4万5,000石を与えられ、名を蘆名盛重と改めた。なお会津は伊達政宗には与えられず、秀吉は配下の蒲生氏郷を封じた。氏郷の死後は上杉景勝を越後国より加増のうえ転封した。 関ヶ原の戦いでは佐竹氏が西軍に加担したため慶長7年(1602年)徳川家康の命により国替えとなり、父義重、兄義宣とともに出羽国秋田領入りして1万6,000石を与えられた。 盛重は名を蘆名義勝と改め、元和年間に出羽国仙北郡角館を居住地に定めた。角館に随従した蘆名家家臣は総勢200名程度であり、河原田家、岩橋家、青柳家、稲葉家などが知られている。なお、青柳家、岩橋家、河原田家は佐竹北家入部後、北家に召し抱えられ、その屋敷は武家町の「仙北市角館伝統的建造物群保存地区」(国選定の重要伝統的建造物群保存地区)の一画に現存している。 元和6年(1620年)、義勝は今日「古城山」と呼ばれる残丘に城館を築き、城下町を北の神代本町から南の勝楽に移し、現代の角館城下町の基礎となる町割りをおこなった。このとき、旧地会津若松の萬松山天寧寺を本寺として、その山号と寺号をそのまま譲り受けることとなり、寛永のはじめ(1624年頃)、蘆名義勝を開基とし、義勝の帰依厚い横手の正平寺七世鉄心快牛を中興開山に招いて、城下東方の「花場山」の麓に創建した。寺領は90余石。秋田市松原の補陀寺および湯沢市山田の最禅寺とならび秋田在三か寺の一と称された名刹であった。
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