国家意識の萌芽
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/21 18:06 UTC 版)
「フィンランドの独立」の記事における「国家意識の萌芽」の解説
マルッティ・ハイキオ(英語版)教授によると、国が独立を宣言する前には国家意識やいくつかの組織が必要である。1809年、ロシア皇帝アレクサンドル1世がポルヴォー議会で宣言したように、フィンランドが自治の大公国として「国の中の国に昇格した」。このときから、フィンランドの統治体は徐々に発展、1863年からはフィンランド議会が定期的に招集された。1906年、一院制議会であるエドゥスクンタが成立、議員は普通選挙で選出された。 ヨーロッパを席巻した民族主義はフィンランドでは国家意識の高揚という影響をもたらした。ユーハン・ルードヴィーグ・ルーネベリとエリアス・リョンロートは1830年代と1840年代に理想化したフィンランド人とフィンランドの自然の形象を創り出した。またユーハン・ヴィルヘルム・スネルマンはフィンランドにおけるロマン主義とナショナリズムに関する議論の中心的人物であり、彼は教育においてスウェーデン語ではなくフィンランド語の使用を推進した。 1901年、ロシアは新しい徴兵法でフィンランド軍を変えようとした。この新しい徴兵法ではフィン人がフィンランドを守るだけではなく、全ての前線においてロシアのために戦うことを義務だとした。フィンランドの抵抗は大衆運動となり、兵士として適格なフィンランド人のうち徴集に応じたのは半分だけだった。 フィンランドのロシア化(英語版)の第二期、そして第一次世界大戦により、活動家で構成されたいくつかの組織が団結した。ヤーカリリーケ(英語版)(「猟兵運動」)はまず志願兵200人を、次に1,900人をドイツに派遣して猟兵の訓練を受けさせ、武装抵抗を準備した。
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