囲碁普及活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/08/14 06:30 UTC 版)
1887年に大蔵省を退職し、故郷松坂町で芇石社を設立するが、文部省に請われて勤務。幾ばくもなく退職して1892年に各地を遊歴するが、岡山に立ち寄った際に、求められて落ち着き、方円社岡山分社を設立。倉敷、松江、米子まで足を伸ばして指導に尽力した。しかし岡山の大洪水によりこの地を離れ、1893年に神戸で方円分社を設け、関西では囲碁の盛んなる地となった。 1895年に方円社の名義を返上し、十四世井上因碩から五段の免許を受ける。井上家からは家門継承の意もあったと言われるが、1903年に方円社からも五段を受け、井上家、高崎泰策らとともに関西での後進育成に尽くした。井上家は1907年に田淵米蔵が継ぐ。1907年の本因坊秀栄没後に、雁金準一らの結成した敲玉会には会友となっている。この頃に方円社の定式会や、中外商業新聞の棋戦(関西碁家新手合)などにも参加している。 1912年には本因坊家から六段を受ける。1915年に京都に転居。翌1916年に名古屋に移転。1918年に尼崎に移る。1921年1月に奕秋社設立とともに社長に就任。同年5月に大阪市天王寺の自宅で病没、本因坊家、方円社から七段を追贈された。
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