因幡国・伯耆国の倭文組織について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/01 15:49 UTC 版)
「倭文神社 (鳥取市)」の記事における「因幡国・伯耆国の倭文組織について」の解説
古代における因幡・伯耆の工業生産は、当時比較的生産の進んだ、また、文化の進んだ地帯にあったかと思われる。 因伯二カ国の養蚕業と農民の絹生産の状況をみたとき、注意を要することは、これらの絹製品は、調のための生産物であって、一般農民の生活に使用されたものではなかったことである。高級絹織物の生産地について、「続日本紀」和銅5年(712年)7月壬午の条を見ると、伊勢国をはじめとして21ヵ国があげられている。その国々の中に因幡・伯耆の2ヵ国も含まれている。因幡・伯耆における制織関係の歴史は古く、かつ、盛んであったことが立証できる。すなわち、錦・綾[要曖昧さ回避]の生産と関係の深い錦部の所在は、因幡国高庭庄に、「錦部志奈布女」(平安遺文)の人名が発見されることから想像できる。 また、縞織といわれる「倭文布(しづぬの)」についても、古くから倭文組織のあったことが証明されている。倭文組織・倭文部の全国分布表を作成すると、山陰地方と東海地方に集中することは、すでに上条耽之助・井上辰雄らによって、明らかにされたことである。すなわち、「延喜式」に記載されている「倭文神社」は、14社であるが、そのうち、6社は山陰道に、5社は東海道に、2社は東山道に、2社は畿内に、それぞれ分布している。また、「延喜式」に載っていない倭文関係の神社は8社あるが、そのうち7社は東海道にある。 因幡・伯耆に関する倭文神社その他のものをあげると、因幡では、「延喜式」「神名帳」、及び「和名抄」の両資料に、高草郡に「倭文神社」のあったこと、また、「平安遺文」に高庭庄の人として倭文真弘なる人名が記録してある。 因幡国・伯耆国ともに、大体、「倭文神社」の所在する所は海・河川・湖沼に近い高台にあることが共通的である。この現象は、全国的に共通する条件でもある。そうすると「倭文部」は「海人部」と関係深い部民であったこと、製織技術の面から秦氏との関係も考えられるであろう。以上の如く、「倭文部」が高草郡高庭庄に、また、川村郡に存在し、高級絹生産にあたったことはほぼ間違いがない。そして、これらの高級生産物は、中央貴族の貴侈品であったであろうが、次第に民間への技術普及とともに伝播していったと考えるべきであろう。
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