因幡国の三上氏
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因幡三上氏は因幡国巨濃郡岩井庄を所領としていたといわれる。一説によれば、三上氏は但馬山名氏から派遣された代官であり、但馬国との国境地域の経営を任されていたといわれる。 因幡三上氏の存在は、文献[要文献特定詳細情報]には康正2年(1456年)より確認される。入部時期については一切不明だが一族として初めて文献[要文献特定詳細情報]に見える三上周通が「近江入道」と名乗っているので室町時代中期ごろかと思われる。 その後、因幡三上氏は空白が有り文明年間まで下るが兵庫頭政実、兵庫頭経実と続いた。天文10年(1541年)の道竹城合戦で経実が討死すると、伯耆山名氏出身の山名こ不二郎(輝房)がその跡を継承した。また、山名豊国の家臣団にも三上一族の名が確認される。 因幡三上氏の存在は江戸時代にはほとんど忘れられており、『因幡民談記』を記した小泉友賢は因幡三上氏関連の情報量の少なさ故、系統の全く異なる山名一族の山名東揚を「三上兵庫頭」と置き換えてしまった。その上、『鳥取県史』などの郷土史本では『民談記』の記述が史料批判もなしにそのまま取り上げられたため、誤った認識が広まることになった。ようやく近年になってこの三上氏に関する史料[要文献特定詳細情報]が確認されたことにより、小泉友賢の説が誤りであることが明らかになった。ただ、確実な史料が確認された現在においても「民談記信仰」の名残りから『民談記』の説を支持する者がわずかながら存在することも事実である。
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