善通寺合戦とは? わかりやすく解説

善通寺合戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/20 00:07 UTC 版)

香川之景」の記事における「善通寺合戦」の解説

之景が讃岐香川家当主就いた後、京兆家実権三好氏握ることとなった天文21年1552年)には三好実休守護細川氏に取って代わり讃岐国内を従えようと諸将書状送ったが之景はこれに従わなかった。そして永禄6年1563年)、実休(前年3月戦死)は香西元成始め安富氏十河氏寒川氏など阿淡東讃の兵八千余人率いて押し寄せ一宮に陣をはった。讃岐諸将にも参陣を呼びかけ9月18日金蔵寺に陣を移す頃には、羽床資載、福家資顕、瀧宮弥十郎瀧宮安資、香川行景長尾元高新目安光、本目正利、仲行司清左衛門山脇久友ら中讃以西諸将加わりその数総勢一万八千人に及んだと伝わる。 之景は家老である香川元春河田弥太郎河田七郎兵衛三野栄久らと共に天霧城入城した。そして、それに応じた大平国祐斉藤師郷、香川左馬助香川伊勢守朝比奈弥太郎秋山良泰、三野左衛門尉など、西讃各城の兵も加わり総勢六千余人城内外を固く守備した。 いざ戦闘が始まると城外一進一退の攻防繰り広げられたが、三好勢堅固な天霧城大規模な攻城戦にはでられず、実休は、長期戦は不利とし、香西元成を介して和議申し込むことにした。之景もこれを容れ、香川氏所領細川政権下の時のまま安堵することを条件に、三好氏従い畿内軍役務めるとの条項連署状を作った。そして10月20日三好勢は軍を引き上げていった。この戦で朝比奈弥太郎防戦の末、討死弘法大師ゆかりの善通寺大伽藍、そして善正寺焼失した

※この「善通寺合戦」の解説は、「香川之景」の解説の一部です。
「善通寺合戦」を含む「香川之景」の記事については、「香川之景」の概要を参照ください。

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