羽床資載
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/04 12:09 UTC 版)
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時代 | 戦国時代-安土桃山時代 |
生誕 | 不明 |
死没 | 天正10年(1582年) |
別名 | 伊豆守 |
主君 | 長宗我部元親 |
氏族 | 讃岐藤原氏流 |
子 | 資治、資吉、香西佳清室 |
羽床 資載(はゆか すけとし)は、戦国時代から安土桃山時代の讃岐国の武将。讃州藤原氏流を称した讃岐国の有力領主。
生涯
羽床氏は、古くは平安時代より讃岐国に土着していた有力氏族で、近隣の香西氏らとは同族関係にあるとされ、密接な関係を築いていた。
居城とした羽床城の近郷に所在する本法寺は、天文年中に資載夫人が建立したと伝わる。天文18年(1549年)には香西元成が細川晴元方となって摂津国に出陣した際、資載は讃岐における留守居役となったという。
その後、香西家は元定の子・元載が戦死し、資載は若年で香西氏当主に就任した佳清に娘を嫁がせ、義父として勢力を維持した。
天正6年(1578年)、佳清が資載娘と離婚したことで、香西氏と内紛に発展する。同年には柾木城を羽床方が占領するが、資載嫡男の忠兵衛資治が討死した[1]。
天正7年(1579年)、香川之景を攻めて備後へと没落させた。同年、福家七郎が香西氏によって謀殺されたことをきっかけとして、大規模な軍事行動を起こす。自身に協調する讃岐国衆の軍勢を伴い、香西表へと出陣したのである。しかし勝賀山の瀧宮豊後守に迎撃され、さらに後方からも襲撃を受けたために敗退、出兵は失敗に終わった(香西内輪破)[2]。
さらに香川氏より奪っていた西庄城も失い、讃岐侵攻を行う長宗我部元親の攻撃を受けることとなる。十河氏や長尾氏、安富氏らと共に迎え撃つも、次第に苦戦した。
高篠の合戦では、長宗我部方の伊予衆を撃破するなど奮戦し、8度にもわたり激戦を展開したが、大敗して羽床城に戻った。その翌日には、元親より香川信景が降伏の使者として派遣され、資載は次男の資吉を人質として元親に差し出し降伏する[3]。そののち、資載は元親に従うも、間もなく天正10年(1582年)十河城攻撃の最中に病死したとされる。資載死後、資吉が羽床氏家督を継承するも、天正15年(1587年)戸次川合戦で戦死。ここに羽床氏嫡流は断絶した。
参考文献
- 羽床資載のページへのリンク