金倉合戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/20 00:07 UTC 版)
天正3年(1575年)、隣接する那珂郡は領主の奈良元政が畿内の領地からは離れられず、宇多津聖通寺城へ戻れない状況が続き、それに乗じて従兵が民を虐げ、暴虐をなしていた。そこで之景は那珂郡を統べるべく諸氏への諜略を開始した。新目、本目、山脇の三家は之景に従ったが金倉城主金倉顕忠は、それに帰伏しないばかりか、三好氏に通じ、香川氏領との境界を侵し始めたので、兵を挙げてこれを討つ事になった。そこで之景は香西佳清へ使者を送り、香西氏配下の羽床、福家、瀧宮の三家の協力を請うことにした。香西氏はこれを承諾したので之景は香川元春、大平国祐、三野栄久を大将として壱千余人の兵を金倉郷へと差し向けた。時を隔ずして香西氏からの援兵として羽床資載、福家資顕、瀧宮安資、同弥十郎などが馳せ参じ、金倉氏に組する中津為忠城主、為忠将監を攻め、これを撃破した。金倉顕忠は、城に引きこもらず出て切所を構えて防戦した。五百余人を五手に分かち三手を香川方へと向かわせ、残る二手を顕忠自らが率いて、福家資顕の軍に向かって戦いを仕掛けた。しかし頼みの三好氏からの援軍は無く、双方戦闘をしている所へ瀧宮安資と同弥十郎の二軍が左右より挟んでせめかけて来たので顕忠は兵を引かせた。その撤退の最中に顕忠は福家の従僕の石若なるものに討ち取られ、戦闘は終わることとなった。戦闘終了後、羽床資載の計らいで那珂郡は香川方に属す事となり、ここに香川氏は西讃四郡を直領とすることになった。 ただし、天正2年(1574年)段階で織田信長の庇護下にあった細川京兆家の当主である細川信良と毛利氏の小早川隆景の交渉に香川氏が関わっている形跡が確認でき、之景は備中にいたと考えられている。その一方で、信良は奈良氏に対して香川氏と協力するように命じる文書も出しており、当時の香川氏や奈良氏が織田氏や毛利氏の支援を受けて讃岐国内で反三好氏活動を行っていたことが伺える(なお、当時の織田氏と毛利氏は敵対関係にはなかった)。
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