唐入りと所領安堵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 22:46 UTC 版)
「佐竹義宣 (右京大夫)」の記事における「唐入りと所領安堵」の解説
天正19年(1591年)9月16日、秀吉が唐入りのため各国大名に出兵を命じ、義宣も、5,000人の出兵を命じられた。この軍役は文禄元年(1592年)1月から翌文禄2年(1593年)閏9月まで約21ヶ月間続き、当初の5,000人の軍役は途中で3,000人に軽んぜられ、「御軍役役弐千八百六十九人」と名護屋陣中より報告された。 義宣は、文禄元年(1592年)1月10日、水戸を出発し、同年4月21日、名護屋城に到着した。文禄2年(1593年)5月23日、義宣は朝鮮へ渡るよう命じられ、6月13日、先陣の佐竹義久が1,440人を率いて名護屋を出航した。しかし7月7日、義宣に対して渡海を見合わせるよう連絡があったので、義宣自身が朝鮮に渡ることはなかった。 唐入り後、義宣は、唐入りに際して整備した軍役体制を活用して水戸城の普請を進め、文禄3年(1593年)、普請は一応の完成を見た。 文禄3年(1594年)1月19日、義宣は秀吉から伏見城の普請を命じられ、伏見城竣工後、伏見城下に屋敷を与えられた。この伏見城普請は3,000人役にて約10ヶ月間続いた。 文禄4年(1595年)6月19日、折からの太閤検地によって諸大名の石高が確定されたことを受け、義宣は、54万石を安堵する旨の朱印状を秀吉から受領した。また、義宣は、文禄4年(1595年)7月16日以降、家中の知行割りを一斉に転換し、領主と領民との伝統的な主従関係を断絶させて、佐竹宗家の統率力を強化した。文禄3年(1594年)に実施された太閤検地の結果、翌文禄4年に佐竹氏領国に54万5,765石という新たな石高が設定され、下記の知行割がなされた。 25万石 佐竹義宣 5万石 佐竹義重 6万石 佐竹義久 16万8,800石 与力家来分 1万石 豊臣蔵入分 1,000石 代官分(佐竹義久) 3,000石 石田三成分 3,000石 増田長盛分 この結果、佐竹氏と与力家来分の比率は66対33となって領主権力が大幅に強化された一方、一門の佐竹義久が豊臣政権寄りの特殊な地位に立たされたり、豊臣蔵入地の設置により金山が掌握されるなど豊臣政権の統制も強化された。
※この「唐入りと所領安堵」の解説は、「佐竹義宣 (右京大夫)」の解説の一部です。
「唐入りと所領安堵」を含む「佐竹義宣 (右京大夫)」の記事については、「佐竹義宣 (右京大夫)」の概要を参照ください。
- 唐入りと所領安堵のページへのリンク