周の始まり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 14:31 UTC 版)
周国の伝説上の始祖は后稷であり、五帝の舜に仕えて、農政に功績があったという。 古公亶父の時代に周の地に定住したとされる。古公亶父には3人の息子があり、上から太伯・虞仲・季歴と言った。季歴に息子が誕生する際、さまざまな瑞祥(吉兆。聖人が生まれる際に起こるとされる)が起こったため、古公亶父は「わが子孫のうち最も栄えるのは季歴の子孫であろうか」と期待した。その期待を察した太伯と虞仲は、季歴に継承権を譲るため自発的に出奔した。南方の僻地に赴いた太伯は句呉と号して国を興し、その地の蛮族(荊蛮)は皆これに従った。なお、この南方の僻地は日本だったという伝説もある(太伯・虞仲#日本に関する伝承)。周王朝の祖である后稷の母である姜嫄の「姜」は「羌」と同じで、西方の遊牧民を意味する。古公亶父は、戎・狄に攻められて岐山の下に移り、はじめて戎・狄風の生活形態である遊牧を改め、都市を建設し、北方狩猟民出身の殷王朝を倒して取って代わった周王朝が、西方遊牧民出身であることは明白である。 中国戦国時代の儒学者である孟子は『孟子』において、「舜は諸馮に生まれて負夏に移り、鳴條で亡くなった東夷の人である。文王は岐周に生まれ、畢郢に死した西夷の人だ」として、舜は「東夷」の人、文王は「西夷」の人であると述べている。
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