周と十干諡号
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 14:31 UTC 版)
殷は武丁や帝乙のように、十干で祖先を呼ぶ十干諡号を使用していた。従来の研究では、周の人は十干で祖先を呼ぶことはなく、西周期に金文において十干諡号を用いているのは殷系の人々であると考えられていた。しかし、河南省平頂山市応国墓地八号墓で出土した「05応公鼎」の銘文には、応公の号として「珷帝日丁」と見え、『春秋左氏伝』僖公二十四年の記述によれば、応国の君は武王の子孫とされているため、「珷帝日丁」とは武王のことを指してあり、周が殷と同様に十干諡号を有していたことになる。 また、2008年から2010年にかけて、山東省高青県陳荘村で西周斉国の貴族の墓群が発掘されたが、18号墓からは「祖甲斉公」という銘文が記された青銅器が発見されている。この銘文は、十干諡号を用いているのが注目される。『史記』斉太公世家によると、斉の国君は2代目の丁公から4代目の癸公まで十干諡号を用いており、佐藤信弥は、これを初代斉侯の号であると主張した。
※この「周と十干諡号」の解説は、「周」の解説の一部です。
「周と十干諡号」を含む「周」の記事については、「周」の概要を参照ください。
- 周と十干諡号のページへのリンク