呉太伯説との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/14 04:52 UTC 版)
水戸藩主徳川光圀は、この書中に「天皇の祖先は呉の太伯である」という記述を発見して憤慨し、そのことがきっかけとなって水戸藩独自の修史事業(のちの『大日本史』)を起こした、という伝説がある。ただし、現行の『本朝通鑑』にそのような記述は存在しない。 この伝説は安藤為章の『年山紀聞』に初めて現われ、藤田幽谷の『修史始末』などによって広まったもので、水戸藩では事実として広く信じられていた。1890年(明治23年)2月、日下寛は『史学雑誌』に論文「本朝通鑑考」を発表し、現行の『本朝通鑑』にそのような記述が無いこと、さらに林鵞峯が、寛文9年(1669年)に書いた『本朝通鑑』神代紀跋文の中で、太伯説を採用しないことを明記していることを挙げて、この説を否定した。これに対し内藤燦聚・内藤耻叟・栗田寛・木村正辞らから、現行『本朝通鑑』に該当する記述がないのは、徳川光圀の批判によって削除されたからである、という反論がなされた。一方、栗田元次・花見朔己・三浦周行・清原貞雄らは日下説を支持した。 1940年(昭和15年)、松本純郎は、先行研究を整理した上で、林鵞峯の日記『国史館日録』を見る限り『本朝通鑑』が改訂された形跡はなく、削除説は成立し難いこと、安藤為章が水戸藩に仕えたのは貞享3年(1686年)で、しかも『年山紀聞』本文の推定成立年代は元禄13年(1700年)から正徳5年(1715年)までの間、すなわち『本朝通鑑』の完成した寛文10年(1670年)よりも30年以上後であり、信憑性が低いことを指摘し、この伝説は事実とは認められないとした。 羅山・鵞峯父子が呉太伯説に肯定的だったのは事実だが、それはあくまで個人的見解にとどまり、幕府の公的な修史事業である『本朝通鑑』において、あえてこの説を採用することはしなかったと考えられている。
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