呉下の阿蒙に非ず
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 09:54 UTC 版)
呂蒙は黄祖討伐をはじめ、赤壁の戦い、その後の荊州を巡る一連の戦いでも常に大将を務め戦功を上げた。しかし、小さいころから字が読めなかったといわれるほどの無学であった。後に主君の孫権から教養の大切さを諭されたが、呂蒙は一度は忙しさを理由に反論したが、孫権から「主君である私でも忙しい中勉強できたのだ。絶対に出来る。私は少時より『詩』『書経』『礼記』『左伝』『国語』を歴読したが、ただ『易』だけは読んでいない。跡を継いで以来、三史(『史記』『漢書』『東観漢記』を指す』)や諸家の兵書を省み、自らに大いに益する所があった」と言われ「『孫子』『六韜』『左伝』『国語』および三史を読むのが良かろう。別に博士になれというのではない、ただ過去の事を多く知ってもらいたいだけだ」と諭され、渡された『魏武註孫子』で呂蒙は勉強を始めたが、結果として儒学者にも勝るほどの量の学問を身につけたという。 魯粛が周瑜の後任として陸口に赴く途中、呂蒙の軍営の前を通った。呂蒙に対し、魯粛があれこれ質問してみると、勉学に励んでいた呂蒙は何でもすらすらと答えてしまったという。魯粛は関羽対策について、逆に呂蒙から5つの策略を与えられる事になった。魯粛は感心し、呂蒙の母に目通りをして友達になることを約して別れた。魯粛は呂蒙を「呉下の阿蒙に非ず」(「阿」は日本語で言えば子供に呼びかける時の“〜ちゃん”といったニュアンスで、「呉にいた頃の蒙ちゃんではない」の意)と評し、それに対して呂蒙は「士別れて三日すれば、即ち更に刮目して相待すべし」(日々鍛錬している者は三日も会わなければ見違えるほど変わっているという事。転じて、いつまでも同じ先入観で物事を見ずに常に新しいものとして見よという意味)と答えた。 ただし、若いころに正式な学問を学ぶ機会を持てなかったため、重要な文書は口述で作成させたという。 孫権は成人してから学問に励んだ武将として、呂蒙と蔣欽を挙げている。またこの事から、進歩のない人間の事を「呉下の阿蒙(呉の呂蒙ちゃん)」と呼ぶようになった。
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