吾妻四郎助光と妖怪
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 00:42 UTC 版)
吾妻四郎助光の死因を妖怪の祟りとする伝承もある。この伝承では、吾妻四郎助光は岩櫃城の城主となっている。その岩櫃城や城下に「ヨウケツ(ヨウゲツ、妖訣)」という妖怪が出没、吾妻四郎助光もその祟りにより殺され、吾妻氏も断絶してしまったという。 前吾妻太郎の御子孫代々岩櫃在城なり頃は人皇八十五代後堀河の後宇武将は鎌倉右大臣源実朝公の御代建暦元年の前後爰に当国の住人我妻四郎祐光朝臣と申して岩櫃の城郭に住して益繁昌たり然而祐光朝臣武道の嗜名誉の弓取也東鑑十八に曰実朝公御前にて吾妻四郎弓箭の手柄有之武勇を顕したり其後鎌倉頼経将軍並久明親王の御代吾妻四郎祐光寸善尺魔の障化有り既に祐光の運命断絶の時節かあたかも天の罰する所か仁治年中の頃より建長年中迄か岩櫃の山に妖夬といへる化け物夜な夜な障化をなす事偏に狗旻天狗の妖か又鬼畜の顰か魔生に犯されつゝ城中各及二兇事一もの也(以下略) — 『再編吾妻記』(『吾妻史料集 下巻』pp.85-86所載) 吾妻四郎助光を死に至らしめた「ヨウケツ」は、妖怪ではなく山賊だとする伝もある。妖怪とは明言せず、原因不明だが城内で起きた騒乱のために吾妻四郎助光が死んだともいう。妖怪「ヨウケツ」は、吾妻四郎助光の治世が乱れて城下が乱れたことの隠喩であるとする者もいる。 この妖怪譚に、後日談が続くバリエーションもある。源頼朝の重臣に藤原北家の藤原行平という人物がおり、妖怪「ヨウケツ」を退治するため、息子で下河辺荘(下総国葛飾郡)の庄司である藤原行家(下河辺行家)を岩櫃へ派遣した。藤原行家は「ヨウケツ」を討伐すると、その功で吾妻郡を与えられた。このとき、吾妻家では唯一、吾妻四郎助光の娘が生き残っていたので、この娘を藤原行家の息子の行重と結婚させた。以後、藤原行家は吾妻太郎行家と名乗り、息子には吾妻太郎行重と名乗らせたという。これにより吾妻氏は再興された。行重の子に吾妻太郎行盛が出たとも云う。 ただし、これらの伝承にみられる「藤原行平(下川辺行平)」「行家」「行重」「行盛」という系図を裏付けるような確かな史料はなく、あくまでも伝説に過ぎない。現代的な研究では、岩櫃城の建築時期は南北朝時代以降と考えられており、鎌倉時代に「吾妻四郎助光が岩櫃城主だった」というのも時代が合わない。
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