名優たちと『桐一葉』
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五代目中村歌右衛門は淀君を、十一代目片岡仁左衛門は且元をそれぞれ当たり役とし、その後もこの作品を幾度も再演した。 五代目歌右衛門はヒステリー気味の淀君を表現するために、わざわざ精神病院に出向いて患者を観察するほどの入れ込みようで、そんな努力によって造形された淀君は第一級の評価を受けた。以後はこの淀君が彼生涯の当たり役となり、数多くの作品の初演で自ら淀君をつとめた。これを成駒屋中村歌右衛門家のお家芸としてまとめたのが『淀君集』で、そこに名を連ねる一連の役柄はどれも「淀君」という独特な家の芸となった。また五代目歌右衛門は、障害のあった体の固さを優れた口跡と独自の発声法で補ったが、特に淀君のそれは観客の誰もが淀君かくありなんと思わしめるほどのものだったといい、これが録音盤に吹き込まれて販売されるとすぐに売り切れるほどの大評判となった。 明治40年(1907年)ごろ、我當時代の十一代目片岡仁左衛門が門人や若手を率いて『桐一葉』をメインとする旅巡業を広島から福岡、熊本にかけて行った。どこへ行っても新しい劇を望む観客の支持を受けて、彼の且元は大好評、大入り満員のため3日間興行が普通なのに2週間近くのロングランを続けた。調子に乗った我當は帰路も同じ場所で興行を続けたが、さすがに同じ『桐一葉』というわけにはいかず、やむなく他の演目を出したところ、今度は逆にさんざんな不評で一座は難渋した。 十五代目市村羽左衛門と三代目市川壽海の木村重成、そして六代目尾上菊五郎と七代目尾上梅幸の銀之丞は、後世に語り継がれる当たり役だった。壽海が昭和43年(1968年)につとめた重成は絶品で、当時80歳を越えていたにもかかわらず、その清新な芸風と爽やかな口跡が重成の性根にぴったりで、どう見ても台本どおりの20歳の若者だったという。 十三代目片岡仁左衛門は、父の十一代目仁左衛門の且元と十五代目羽左衛門の重成が忘れられず、昭和30年代に天竜寺で三男の片岡孝夫と『長柄堤』を上演した際、自らは十一代目仁左衛門の型で、孝夫には十五代目羽左衛門の型でこれをつとめさせた。以後十三代目仁左衛門は、この『長柄堤』を一度は劇場の檜舞台で孝夫とつとめることを生涯の念願とし、昭和63年(1988年)11月の国立劇場における『桐一葉』の通し狂言でこれを実現させている。
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