合衆国陸海軍最高司令官(大統領)付参謀長
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「ウィリアム・リーヒ」の記事における「合衆国陸海軍最高司令官(大統領)付参謀長」の解説
アメリカ合衆国が第二次世界大戦に参戦すると、ルーズベルト大統領は個人的なアドバイザーが必要であると決定した。大統領は海軍から作戦部長アーネスト・キング大将、陸軍から参謀総長ジョージ・マーシャル大将、陸軍航空軍から総司令官ヘンリー・アーノルド大将を指名した。彼らはこの動きに抵抗し、マーシャルがリーヒだけがこのポストを受け入れられると提案した。1942年7月6日にリーヒは合衆国陸海軍最高司令官(大統領)付参謀長 (Chief of Staff to the Commander in Chief, U.S. Army and Navy, the President of the United States) に就任。大統領の個人的な軍事顧問として事実上の統合参謀本部の議長(1942-49年)を務めた。 ノルマンディー上陸作戦決行当日の1944年6月6日、リーヒは故郷のアイオワ州ハンプトンで一日を過ごした。この良く宣伝された「感傷旅行」は、ドイツを欺くための活動の一環であった。このアイデアはワシントンD.C.を含むアメリカ国内のドイツのエージェントに対して、軍の高官が首都から離れている間は重大な作戦は実施されないと信じ込ませるためのものであった。 1944年12月15日には新たに制定された海軍元帥の地位が与えられ(五つ星元帥中の最先任)、1949年に初代統合参謀本部議長 (Chairman of the Joint Chiefs of Staff) にオマル・ブラッドリー陸軍大将が就任した後は、その死まで海軍長官の顧問に留まった。 ビエケス島およびクレブラ島の一部の強制譲渡に関してアメリカ海軍とプエルトリコ政府が和解した後、リーヒは1949年3月に辞職した。翌年に回想録「I Was There」を出版する。リーヒ元帥は1959年7月20日にベセスダ海軍病院で死去(84歳没)した。 その栄誉を称え、リーヒ級ミサイル巡洋艦の1番艦にその名が命名された。
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