史跡・伝承
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赤法花の一里塚(庚申塚) - 字天子古台成立年代は明らかではないが、1825年(文政8年)以前に作られた一里塚。現在は庚申塚と称し、庚申塔や石造物が建立されている。当地は江戸時代には常陸国笠間に通じる笠間街道と称する脇往還であり、一里塚が設置された。 赤法花騒動江戸時代末期、隣接する守谷町の名主ら数名が赤法花村占有地の測量(縄入れ)を行ったことによる騒動。赤法花村の村民がこの行為を不法として守谷町の名主を捕らえ、赤法花村の名主宅へ軟禁。同行していた数名が守谷町に逃げ帰った後、町民らが大挙して赤法花村に押し掛けた。最終的には守谷町の名主が測量場所を赤法花村の占有地と知らなかったこと、赤法花村の村民が自分達の土地を取り上げようとしていると誤解し、道理を弁えずに名主を捕らえたことを双方が理解し、円満解決となった。
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史跡・伝承
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/28 07:46 UTC 版)
本貫の地である俣野の伝承によると、死期迫った景久は、念持仏を故郷に祀るよう託したという。現在、俣野観音堂に十一面観音像が奉安されている。 『平家物語』によると、斎藤実盛が平家方の武士たちの本心を知ろうとして、「現在源氏方は勢いがあり、平家方は敗色が濃厚であるから、木曾殿のもとに参ろう」と試した際、景久は「さすがにわれらは、東国では人に知られた、名のある者である。威勢のいい方について、あちらに参り、こちらに参ることは見苦しいことである。方々の心は知らない。景久は、この合戦で平家方として討ち死にするつもりである」と述べたという。 子孫とおぼしき人名が、時宗清浄光寺に伝えられている。
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