史学 からの反論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 01:18 UTC 版)
「義経=ジンギスカン説」の記事における「史学 からの反論」の解説
臨風生は『中央史檀』の中でこの説を否定している。也速該巴阿禿児(エスガイバアトル)、其妻訶額侖兀真(ホエルンワデン)との間には四人の男子と一人の女児とがあり、成吉思汗はその長子であったが、也速該は塔塔児(タタール)の酋長帖木真(テムジン)を破り捕虜にし、後に成吉思汗となる子が斡難の送理(オンノのセリ)温弧山に偶然生まれたので敵将の名をとって帖木真と名付けた。其の産まるる時、右の手に髀石の如き血塊を握って、呱々の聲を挙げたと云うことである。『元朝秘史』、『元史訳文証補』、『聖武親征録』、『蒙古源流』、『元史太祖本記』、『長春真人の西遊記』、ドウソンの『蒙古史』に至るまで成吉思汗の誕生及び其の人物が詳細に記されており、源義経再興傳説などを要れる余地はない。博引旁證百千なるも、あやふやでは何の権威も有しない。青い眼鏡で得意勝手な我田引水の筆法を用いられたら、流石の成吉思汗も地下に苦笑を禁じえぬ。判官びいきは現在まで廃らない一種の人情美であるが、義経と成吉思汗には大分その人物に相違があり、例えば義経は兵法に長じ、戦略に巧みであったが、成吉思汗ほどの蓋世的英雄ではなかった。若し成吉思汗であるほどの大豪傑であったなら、大物浦から引還し、當麻越えで吉野に入り、山伏姿の妻に様々憂目つらい目を凌いで奥に入り、遂に頼朝と覇を争い得なかったような不器用さ加減はなかったであろうと書いている。
※この「史学 からの反論」の解説は、「義経=ジンギスカン説」の解説の一部です。
「史学 からの反論」を含む「義経=ジンギスカン説」の記事については、「義経=ジンギスカン説」の概要を参照ください。
- 史学 からの反論のページへのリンク