古賀一飛曹最後の任務
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 08:40 UTC 版)
「アクタン・ゼロ」の記事における「古賀一飛曹最後の任務」の解説
1942年6月、ミッドウェー海戦に連動して、日本はアラスカ南方沖のアリューシャン列島を攻撃した。角田覚治少将指揮の攻撃部隊は、6月3日およびその翌日の2回にわたりウナラスカ島のダッチハーバーを爆撃した。 古賀忠義一飛曹は、6月4日の攻撃隊の一員として空母龍驤から発艦した。編隊は一番機が遠藤信(えんどうまこと)飛曹長、二番機が古賀、三番機が鹿田二男(しかだつぐお)二飛曹。古賀と僚機はダッチハーバーを攻撃し、アメリカ軍の飛行艇PBY-5Aカタリナ(パイロットはバド・ミッチェル)を撃墜、生存者を機銃掃射した。この最中に古賀機は損傷を受けた。 1984年に発表された従軍記において鹿田は、古賀機の損傷は彼の隊が湾に係留されていたPBYを攻撃した際に被弾したものだと主張した。この説明ではミッチェルのPBY撃墜に関して何も言及されていないが、日米双方の、この日湾にはPBYはいなかったという記録と彼の主張とは矛盾しており、一方でその前日(6月3日)のダッチハーバーへの攻撃に関するアメリカ側の記録とは一致している。リアデンは、「その出来事から半世紀近く経っているので、鹿田の記憶が6月3日と4日の攻撃を混同した可能性が高いと思われる … 彼へのインタビューにおいて、彼らがミッチェルのPBYを撃墜し、その後海面を掃射したことに触れないよう、都合のいいことだけを覚えている可能性もあるかもしれない」と述べている。 何人もが古賀を撃ち、墜落させたのは自分だと主張しているが、それが本当は誰なのかは分かっていない。証拠写真が強く示唆しているのは、彼は地上砲火により被弾したということである。機体の調査で、それは上方および下方からの、小火器によるもので.50口径かそれ以下の弾痕が確認された。
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