古瀬戸中期様式
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/28 08:14 UTC 版)
古瀬戸中期様式の開始時期を示す資料としては、神奈川県鎌倉市二階堂覚園寺開山塔の地下に設けられた石室から、II期でも古相に属する草葉文広口壺が出土している。これは、同時開山智海心慧の蔵骨器であり、開山塔が智海心慧の二十七回忌にあたる1332年(正慶元年)の建立であることから、広口壺の年代は、開山智海心慧が亡くなった時点かそれよりやや前と考えられるため、おおむね14世紀初頭に位置づけられる。これは、井上編年窖窯III期にほぼ相当する。 中期様式で、13世紀末のI期では広口壺、中型の仏花瓶である花瓶Ib類、大型の仏花瓶である花瓶II類、筒型香炉、天目茶碗、平碗、水滴が生産されはじめる。14世紀初頭のII期になると小皿、柄付片口、茶入、祖母懐壺と呼ばれる頸部が短く寸胴で肩部に耳がついた茶壺が登場する。瓶子と水注は寸胴なII類が残り、頸部の中央部分に突起をめぐらすようになる。中期後半、すなわち14世紀中葉になると建窯(中国語版)写しの天目茶碗B類が現れる。 また、中期様式では鉄釉が出現するのを特徴としており、出現時には灰釉と酸化鉄の調合にばらつきがあったため、酸化鉄が少ないために青みがかって光沢が強くなったり、逆に多すぎてくすんだ赤みの強い発色になったりしていたが、中期後半になると黒褐色の安定した色調の鉄釉が施される。 施釉方法は、中期前半で水滴、合子、花瓶I類のような小型の瓶、壺類や天目茶碗は、素地の状態の器を釉薬に漬けるツケガケがおこなわれる。中期後半になると平碗、卸皿、天目茶碗などの碗、皿類のみならず折縁深皿や柄付片口のような鉢、盤類もツケガケによる施釉が主体でハケヌリは底部内面のみとなる。大型の瓶、壺類は中期後半にツケガケや釉薬を杓などで流しかけるナガシガケの施釉法が現れる。 中期様式の施文は櫛描文のほかに印花文が器面全体に施され、画花文や貼花文が多い傾向がある。またヘラ描きの草葉文も盛んに施される。中期後半になると櫛描文は存続するものの、印花文はしだいに消失していく。
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