反幕府勢力、南朝帰順
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 08:07 UTC 版)
正平22年/貞治6年(1367年)、基氏が没すると直常は出家、上洛して足利義詮に帰順した。そして斯波高経・義将父子の失脚(貞治の変)に伴い、弟の直信が越中守護に補された。しかし翌正平23年/応安元年(1368年)、斯波義将の幕政復帰と共に直信は越中守護を解かれ、直常は再び越中で反幕府の軍事行動を開始する。この際に元越中国司の井上利清と連携している。この期間にも南朝に帰順している。 正平24年/応安2年(1369年)4月12日に能登に入り、吉見氏頼の族将、頼顕、伊予入道らと戦う。 建徳2年/応安4年(1371年)7月に直常は姉小路家綱の支援を受けて飛騨から越中礪波郡へ進出し、幕府方の越中国守護斯波義将、加賀国守護富樫昌家、能登守護吉見氏頼らと婦負郡長沢(現在の富山県富山市長沢)で直常方の長沢氏(土岐)一族らと共に合戦を行ったが大敗。さらに五位荘(富山県高岡市)の戦いでも敗北し、同年8月に同じく南朝方の飛騨国国司姉小路家の姉小路尹綱を頼りに飛騨国へ撤兵、以後の史書からの登場も消えて消息不明となった。
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