原敬との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 08:53 UTC 版)
山縣は古くから原を「屈指の人物」であると評価し、大阪毎日新聞の社長だった時代には主要国の駐在公使に抜擢しようと考えていたこともある。また松本剛吉への談話では、星亨、大浦兼武、田健治郎らと並べて「人格を貴び、やろうとすることはどんなことでもやろうとする人物」と評している。原は政友会入りした後は対立者となったが、政党自体は嫌っていたものの、原個人に対してはそれほど嫌悪していなかった。原内閣成立時にも「今度の原の遣口は能く出来た」と上機嫌で語っていたという。 一方の原は『原敬日記』では山縣について「種々の奸計」「陰険手段」を用いる人物と評し、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}山縣が勲章や栄典を求めるとして「あれは足軽だからだ」と否定的に記述している[要出典]。一方で山縣の外国への慎重姿勢などを評価して、山縣が生きている限り日米戦争は起こらないと発言していた。 原は山縣の完全排除を望まず、宮中某重大事件で山縣が謹慎していた際にはその復帰を求めている。以降原への信頼を厚くした山縣は「原位の人間は只今では無い」「(辞表が受理されて平民に戻った後は)原と力を合わせて遣りたい」と述べている。 原が暗殺された際には非常に嘆き、「原と云ふ男は実に偉い男であった。ああ云ふ男をむざむざ殺されては日本はたまったものではない」と述べている。その後、病床で原を殺されたときの夢を見て、「何んだ。馬鹿。殺して仕舞へ。馬鹿な。馬鹿な。」と叫んでいる。
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