協約締結時の高宗皇帝とは? わかりやすく解説

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協約締結時の高宗皇帝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 02:14 UTC 版)

第二次日韓協約」の記事における「協約締結時の高宗皇帝」の解説

李完用らが上疏した「五大上疏文」では、締結交渉自体拒否しようとした強硬派大臣たちに対し高宗自らこれを戒め交渉妥協」を導いた様子報告されている。また、高宗は少しでも大韓帝国有利になるように協約文の修正を行うこととしらの修正提案積極的に評価している。大日本帝国側も大韓帝国側からなされた4カ所の修正要求全て受け入れ協約修正行った。それに対して朝鮮大学歴史地理学部長である康成銀は「五大上疏文」自体李完用協約賛成派によって記され協約賛成する事で売国奴糾弾され乙巳五賊自身皇帝対す弁明記した上疏に過ぎない事などを指摘している。1906年1月5日提出された「呉炳序等上疏文」は「五大上疏文」を批判して五大臣が責任皇帝被せようとした諸事実を指摘しており、皇帝はこの「呉炳序等上疏文」に批答を与え「爾(なんじ)の言葉詳しく明らかであり、条里ママ)がある」と肯定的に評価している。また1905年11月25日乙巳五賊ひとりである当の権重顕提出した権重顕上疏文」には「乙巳五条約」が定められ条約手続き踏んでいないことや、皇帝裁可経ず調印されたことなど、後に提出された「五大上疏文」とはまった正反対内容記されている。康成銀はこれらの事実以って五大上疏文」の資料としての信頼性疑問呈している。

※この「協約締結時の高宗皇帝」の解説は、「第二次日韓協約」の解説の一部です。
「協約締結時の高宗皇帝」を含む「第二次日韓協約」の記事については、「第二次日韓協約」の概要を参照ください。

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