千葉在住期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/13 14:56 UTC 版)
1897年(明治30年)、堀江は39歳で千葉中学校(現在の千葉県立千葉高等学校)に赴任し、以後35年間、図画の教員として勤務した。また、学生寮の舎監も務めていた。 堀江の前任者は大幸館で指導した亘理寛之助で、亘理が仙台に帰郷することになり後任を引き受けた。堀江は教員免許がなく、嘱託教師だった。美術教員としての免状を取るために校長が申請を促したが、かつて指導した後輩に教員としての資格を量られるのが嫌で自らは免状を得ようとしなかったと言われている。この当時の試験委員長は大幸館時代の塾生・岡田三郎助だった。やがて規則が改正され、条件を満たせば、校長の推薦状を添えて出願すると無試験で免許状が得られるようになり、当時の西村房太郎校長の推薦により教員となった。 堀江が千葉中学校で指導し、のちに画家となったのは柳敬助、石井林響、大野隆徳、菅谷元三郎、板倉鼎、和田清、浅井真、国松伽耶、青木滋芳、遠藤健郎がいる。 1902年(明治35年)、千葉県知事阿部浩の委嘱を受け、多古町の耕地整理の状況を描いた「耕地整理図」を完成させた。「耕地整理図」は第5回内国勧業博覧会に出品された。 1904年(明治37年)、千葉中学校の帽章をデザインした。 1911年(明治44年)、堀江はこの頃、再び洋画の研究所を開こうとしていたが、1912年(明治45年)、松本市で火災が起き、堀江の生家も全焼した。堀江は存命だった母と兄を千葉に迎えた。 1913年(大正2年)、55歳で山田茂代と結婚し、都川の近くに住んだ。56歳の時、娘・澄子を儲けた。 1922年(大正11年)11月1日、堀江の勤続25年を祝う祝賀会が催された。この日は千葉中学校創立44周年記念日で、堀江の展覧会も催された。堀江はこの展覧会に「富士山」という作品を出品している。 1932年(昭和7年)10月27日、腎臓病の悪化により74歳で死去。墓は千葉市中央区の高徳寺にある。
※この「千葉在住期」の解説は、「堀江正章」の解説の一部です。
「千葉在住期」を含む「堀江正章」の記事については、「堀江正章」の概要を参照ください。
- 千葉在住期のページへのリンク