北魏との戦役
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北魏が南侵してくると、崔慧景は豫章王蕭嶷の命を受けて3000人を率いて方城に駐屯し、司州の援護にあたった。魏軍が撤退した後も、梁州の李烏奴の乱が続いていたため、崔慧景は輔国将軍のまま持節・都督梁南北秦沙四州諸軍事・西戎校尉・梁南秦二州刺史となって、その対応にあたった。崔慧景は漢中の兵を動員して白馬に進軍し、分遣した支軍に李烏奴の腹背から攻撃させると、李烏奴は敗れて武興に逃げ帰った。482年(建元4年)、武帝が即位すると、崔慧景は冠軍将軍の号に進んだ。485年(永明3年)、冠軍将軍のまま建康に召還され、黄門郎に転じ、羽林監を兼ねた。486年(永明4年)、隨王蕭子隆の下で東中郎司馬となり、輔国将軍の号を加えられた。持節・都督司州諸軍事・冠軍将軍・司州刺史として出向した。母が死去したため、辞職して喪に服したが、ほどなく武帝の命によりもとの任に戻された。崔慧景は州刺史から退任するたびに、多大な資産を朝廷に献上したため、武帝に喜ばれた。491年(永明9年)、建康に召還され、太子左率に転じた、通直散騎常侍の位を加えられた。492年(永明10年)、右衛将軍の号を受け、給事中の位を加えられた。 493年(永明11年)、北魏が南侵しようとする動きをみせたため、崔慧景は持節・都督豫州郢州之西陽司州之汝南二郡諸軍事・冠軍将軍・豫州刺史とされた。蕭昭業が即位すると、崔慧景は征虜将軍の号に進められた。崔慧景は年若い君主が新たに立てられたのを見て、ひそかに北魏と通交し、朝廷はその向背を疑い恐れるようになった。輔政をつとめた西昌侯蕭鸞は蕭衍を寿春に派遣して崔慧景を繋ぎとめようとした。崔慧景はひそかに蕭鸞(明帝)の即位を求める勧進をおこなった。崔慧景は建康に召還され、散騎常侍となり、左衛将軍の号を受けた。495年(建武2年)、北魏が徐州と豫州に進攻すると、崔慧景は本官のまま仮節を受けて鍾離に向かい、王玄邈の指揮に従った。まもなく冠軍将軍の号を加えられた。497年(建武4年)、度支尚書に転じ、太子左率を兼ねた。 冬、北魏が沔北5郡を攻撃してくると、崔慧景は仮節を受けて、兵2万を率いて、襄陽に向かった。雍州の諸軍は崔慧景の指揮統制に従った。498年(永泰元年)、崔慧景が襄陽に到着すると、沔北五郡はすでに陥落していた。崔慧景は平北将軍の号を加えられ、佐史を置き、軍を分遣して樊城の防備を助けた。崔慧景は渦口に駐屯し、蕭衍・董仲民・劉山陽・裴颺・傅法憲らに5000人あまりを与えて鄧城に向かわせた。北魏の数万の軍勢が鄧城に襲来すると、崔慧景は南門を守り、蕭衍は北門を守り、そのほかの部隊は城壁の上に陣取った。ときに崔慧景らは朝早く食事をして急行していたため、みな飢え疲れていた。軍中の北館の客3人が逃亡して北魏に投降し、その実情を知らせた。北魏の彭城王元勰は武衛将軍の元虯を城の東南に分遣して崔慧景の退路を断たせ、司馬の孟斌を城東に向かわせ、右衛将軍の播正を城北に駐屯させて、交互に城内に射かけさせた。蕭衍は出戦を望んだが、崔慧景は「魏軍は夜を徹して城を包囲しているので、日暮れを待てば自ら去るだろう」といって抑えた。魏軍の優勢が明らかになると、崔慧景は南門から自軍を脱出させた。味方の諸軍はそのことを知らされておらず、後に続いて脱出した。魏軍が北門から進入し、劉山陽とその部下数百人が後方の敵に迫られて死戦した。魏軍の百余騎が劉山陽を捕らえようと突出したところ、劉山陽は射手に射させて3騎を転倒させ、手ずから十数人を殺し、戦いながら後退した。崔慧景は南方の鬧溝を通過したが、軍人が踏み荒らしたため、橋はみな破壊されていた。魏軍が道をはさんで射かけてきたため、軍主の傅法憲が殺され、溝に追い落とされた崔慧景の軍は死者があい枕する惨状となった。劉山陽は上着と武器で溝を埋め、溝を乗り越えて脱出できた。北魏の孝文帝が沔北にやってきて、劉山陽を樊城で包囲した。劉山陽は樊城でまた奮戦し、夕方になって魏軍は撤退した。敗残の崔慧景の軍は戦々恐々としながらその夕方に船で下って襄陽に帰った。
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