効率上の理由説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 08:30 UTC 版)
反対運動説に対して、「鉄道忌避伝説」を唱える立場からは、全国のそういった言説を調査して『鉄道忌避伝説の謎〜汽車が来た町、来なかった町』を著した地理学者の青木栄一は「馬車鉄道から蒸気鉄道への動力変更に当たって、建設が鉄道局に委託されたため、(平坦・効率的な最短の)武蔵野台地上の一直線ルートが考えられたと思う」と指摘している。 また、JR東日本の鉄道博物館の副館長であった荒木文宏も「勾配など地理的条件、コスト面などから、20km以上の直線は作る側にとって最も理想なルート」と説明した。 さらに、江戸東京博物館の学芸員として中央線を研究した真下祥幸は、「蒸気機関車の能力、燃料供給、土地買収などから地理的に最も合理的なルートを選んだ」と分析した。真下は次の理由から推測した。 現路線のルートは甲州街道などより平坦で勾配差がないため、機関車の馬力が弱いという弱点を克服できた。 開業時からあった国分寺、立川などの駅も、機関車を動かすのに必要な水を用水路から供給する契約が成立した地域が選ばれている。 当時の沿線は畑ばかりであり、既存の民家が集積する街道沿いよりも用地買収がしやすかった。 建設費をなるべく抑えるために単純な直線になった。 また真下は、「住民の反対運動のせいという説や、仙石貢が独断で決めたという説は、いずれも考えづらい。」と指摘した。真下は次の理由から2説を否定している。 甲武鉄道が開業した1889年は日本初の鉄道開通(新橋 - 横浜間)から20年近くが経過しており、すでに民衆から鉄道への抵抗感は弱まり、むしろ経済効果が注目されていた(実際に、1890年に開業した本路線の日野駅をめぐっては、住民から駅を設置してほしいという請願運動があった)。 当時の測量技術から、仙石が無策に線を引いて路線を決めることは考えづらい。
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