劣悪な労働条件と始末書提出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 21:39 UTC 版)
「水谷新六」の記事における「劣悪な労働条件と始末書提出」の解説
鳥類の乱獲が続けられる中で羽毛採取、そしてはく製製造業の継続は困難となっていき、労働者たちの収入も減少していく。また南鳥島での労働者の待遇は極めて劣悪で、1903年になるとその状況が新聞報道されるようになった。 前述のように南鳥島は遠隔地であり生活物資の安定的な補給は困難であり、船便が途絶えるとたちまちのうちに食糧不足に陥った。また低平な南鳥島は台風や高潮に襲われることも多かった。そのような状況に拍車をかけたのが劣悪な衛生状態である。南鳥島の主産業である羽毛採取、はく製製造後に廃棄された鳥類の遺骸が島内のいたるところにあって、島全体が悪臭に包まれていた。しかもその鳥類遺骸の腐肉ですら肥料として移出されていた。 このような状況下で労働者たちの死亡が相次いでいた。1896年から1899年までのデータは残っていないが、1900年から1903年にかけて南鳥島で働いた労働者48名の中で13名が亡くなった。また後述の南鳥島事件に際して派遣された海軍艦船高千穂に乗り込んでいた軍医の報告書によれば、労働者の死亡率は33パーセントであり、1901年7月から翌1902年6月にかけての1年間は特に状況が悪化し、11名の在島者のうち5名が死亡し、4名が疾病により小笠原に送還されたという惨状であった。 このような南鳥島の実態が知られると、東京府は水谷に状況の説明を求めた。結局1903年2月、水谷は東京府に始末書を提出した。
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