前哨戦、アラム・ハルファの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 21:24 UTC 版)
「エル・アラメインの戦い」の記事における「前哨戦、アラム・ハルファの戦い」の解説
アメリカ軍の戦車を大量に陸揚げし、物量に勝る英軍は植民地徴収兵(オーストラリア・ニュージーランド・南アフリカ・インドなど)に、エル・アラメイン前面から南へ向けて堅固なボックス陣地を敷かせた(参照、ガザラの戦い)。それに対し、ドイツアフリカ軍団(DAK)ほかドイツ・イタリア枢軸軍の司令官エルヴィン・ロンメルは、英軍陣地ラインはイタリア軍と歩兵に任せ主力の第15、21装甲師団をはるか南から長躯迂回(海岸寄りの地域には地雷や戦車用の罠が敷設され、強化された塹壕に兵士が立てこもっていたのでこうせざるをえなかった)させ地中海側から英軍を包囲しようと8月31日進撃を開始する。 英第7機甲師団の前衛にロンメルは猛攻を加えたが、奥行きのある広範囲の地雷原により攻撃の鉾先が鈍り、しばしば地雷の被害を受けた。そうして突破に手間取り、燃料不足に直面すると、北からモントゴメリーが差し向けた英第8機甲師団の一部が、東からは第7機甲師団の主力が圧迫してきた。ロンメルは当初の計画をあきらめ、第21装甲師団が防御しつつ第15装甲師団には、さらに迂回してアラム・ハルファ高地に陣取る英軍本陣を突こうとした。しかし、補給不足の中を進軍する第15装甲師団は英第22戦車旅団と衝突し敗走した。 この戦いで英軍は攻勢にでることなく防御のみで勝利した。
※この「前哨戦、アラム・ハルファの戦い」の解説は、「エル・アラメインの戦い」の解説の一部です。
「前哨戦、アラム・ハルファの戦い」を含む「エル・アラメインの戦い」の記事については、「エル・アラメインの戦い」の概要を参照ください。
- 前哨戦、アラムハルファの戦いのページへのリンク