写真業へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/19 15:50 UTC 版)
安政2年(1855年)7月12日備中国後月郡梶江村(岡山県井原市芳井町梶江)に生まれた。1868年(明治元年)頃阪谷朗廬と親戚の医者の息子(山鳴弘斎三男清三郎か坂田警軒兄待園)が大坂で学んだ湿板写真を披露するのを見て、初めて写真に触れた。 明治4年(1871年)兄讃太郎を頼って上京し、1874年(明治7年)8月叔父梅園の師林洞海の子林董の書生となった。趣味の写真を助けてカーボンプリントに苦戦し、横山松三郎に教えを請ううち、写真家を志し、松三郎門下中島待乳に入門した。 1882年(明治15年)芝区日蔭町一丁目1番地(港区新橋一丁目19番)に写真館を開き、1890年(明治23年)5月1日同番地南方に移転した。歌舞伎役者や新橋芸者を顧客としたが、アマチュア写真の普及により経営は苦しくなり、1894年(明治27年)頃鹿島清兵衛の玄鹿館技師として遊興に加担するも、1896年(明治29年)玄鹿館は倒産した。
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