内閣の設立、特務機関、宦官の重用
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「靖難の変」の記事における「内閣の設立、特務機関、宦官の重用」の解説
詳細は「明の内閣」、「錦衣衛」、「東廠」、および「第三次宦官時代」を参照 政務を効率的に処理するために、洪武三十五年(1402年)八月の初め、朱棣は解縉(中国語版)・黄淮を文淵閣とし機務に参画させた。その後、内閣は7人まで拡充された。これが内閣制度の開始であり、明朝の政治で大きな役割を果たすようになり、清朝でもこの制度を踏襲した。 また、朱棣は造反して帝となったため、大臣に対しては大いに疑心を持っていた。そこで、洪武年間に廃止されていた錦衣衛を復活させ、特務機関の活動を再開させた。その指揮者に任じられた紀綱(中国語版)は、永楽帝時代における大物の権奸となった。永楽帝はさらに永楽十八年には東廠を設立して、信頼している太監(宦官)を指揮者とした。これは特務による支配を強めるとともに、宦官の地位も高めた。明代においては、特務機関の優越がほぼ一貫しており、大きな特徴となっている。 靖難の変に際して、朱棣は宦官から多くの援助を受けたため、太祖が定めた宦官の執政禁止を即位後に変更し、宦官を重用するようになった。結果として、明朝では大航海を行った鄭和のような著名かつ有能な宦官も出たが、一方で司礼監や東廠のような宦官が権力を握る部局の地位が高くなり、地方の軍権における鎮守太監(中国語版)や採辦(中国語版)(皇室の物資の購入)の監督など、重要な職務も宦官が担当するようになり(必ずしも永楽帝時代に設置されたものばかりではなかったが)、これは後世の国の禍の種となった。
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