公会堂の建造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/15 00:25 UTC 版)
1911年(明治44年)、皇太子嘉仁(後の大正天皇)の北海道行啓に際し、皇太子が小樽に宿泊することが決定した。天皇が神聖視されていた当時、これは天下の一大事と言えた。 当時の小樽は景気が良いとはいえ、まだ皇族が宿泊できるほどの建物はなかった。そこで宿泊所として、小樽一の建物といえる藤山の邸宅を提供するよう、依頼があった。しかし藤山はこの一大事に対し、1人の民間人に過ぎない自分の住居に皇族を泊めるわけにはいかないと言い、皇太子の宿泊所として、街の名物といえる建物を造ることを決意した。 藤山の私財約2万8千円、平成期にして約1億円が投じられ、小樽公園内に勇壮な建物が建造された。一商人の意気込みに行政も黙っていることはできず、工事費は小樽区が追加更正予算を組み、小樽電燈合資会社が電気会計費を寄付した。こうして皇太子行啓に際し、小樽は国際貿易都市の名にふさわしい宿泊所を提供でき、行啓はつつがなく終了した。 この行啓の後、藤山は宿泊のために造ったこの建物を、小樽に寄贈することを申し出た。小樽で計り知れない恩恵を受けた藤山にとって、人々の文化や教育の向上のためにこの建物を提供することが本望であった。この御殿は後も皇族の宿泊所として用いられると共に、小樽区公会堂、後の小樽市公会堂として幅広く活用され、小樽の街並みを彩る格式高い建物の一つとなった。
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