入江俊郎内閣法制局次長
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「GHQ草案手交時の脅迫問題」の記事における「入江俊郎内閣法制局次長」の解説
入江は、初代法制局次長としてこの日の閣議に陪席した。従前、閣外から閣議に陪席できるのは、内閣書記官長と法制局長官のみが原則であったが、戦後、内閣副書記官長と法制局次長の陪席が認められた。入江は当時の様子をこう回想する。 昭和21年2月19日、火曜日の定例閣議の劈頭にあたって松本国務大臣は憲法改正に関して発言を求め、ここに驚くべき報告を行いました。(略)彼ら〔ホイットニーら〕のいうには「松本案は司令部としてアプルーブできない。それゆえ今交付するこの案を重要な参考として立案してほしい。この案は司令部で立案し、マッカーサーも承認したものである」と言って、マッカーサーよりの憲法改正案の交付があったのであります。そして彼らはつけ加えて「この案は決して日本側に強制するものではないが、これを日本側が承認できるかどうか、来る20日までに返事をせられたい」ということであった、と述べ、ここで先方の案の大要を、口頭で紹介されたのであります。(略)そして若しこの案を日本側が拒否するなら、エムペラーのパーソンについても重大な変更をしなければならなくなるのではないかと述べた。(註、この「エムペラーのパーソン」といったホイットニーの言葉は、強く松本氏の胸を打って、あとまでも忘れがたく、ひどく印象的であったと松本氏は入江にも語り、また他の場所でも言っておられた。)(以下略) — 昭和21年2月19日における松本国務大臣の重大発言より この入江の口述は、東京大学占領体制研究会が、1954年6、7月の4回に渡り採録したものである。 この日の閣議では、GHQ草案受け入れ反対派と賛成派の二派に分かれた。反対派は幣原首相、三土忠造内相、岩田宙造法相、賛成派は芦田厚相、副島千八農相などであった。松本がこの日閣議で報告するまで、GHQ草案手交とそれ以降の事情を知っていたのは、幣原と吉田だけで、他の閣僚達は知らされていなかった。閣議の結果、2月20日迄という司令部への回答を22日に延期してもらうことにし、21日に幣原首相がマッカーサーに会い話をすることになった。しかし、閣僚たちは不満だらけであった。それは、閣議決定されてもいないのに「いつの間にか松本案がそのまま内閣の確定した意見の如く進行してしまっているところへの不満の感情」と「このように驚くべき案が司令部から13日に交付されたというなら、それこそ即刻閣僚に意見を聞き、その上で速かに司令部へ説明なり反駁なりをすべきであるのに、18日に松本国務大臣だけで追加説明を提出したことに非常に割切れないような気分」であった。
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