先行・後続のキャンペーン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 06:07 UTC 版)
「ディスカバー・ジャパン」の記事における「先行・後続のキャンペーン」の解説
同じ1970年の、3月に始まった富士ゼロックス(現:富士フイルムビジネスイノベーション)のキャンペーン「モーレツからビューティフルへ」も、藤岡和賀夫が手がけていたものだった。1970年の同社の広告には「ディスカバー・ゼロックス」というのもあった。 直前の1970年9月頃、「Make Your Country 東北」というキャンペーンが実施され、首都圏の国鉄列車内に4枚組のポスターが掲示された。英語を含むタイトル、女性モデルの使用、場所の不明さ、国鉄の文字の小ささといった「ディスカバー・ジャパン」初期ポスターとの類似点があった。一方で、国鉄本社旅客局ではなく首都圏本部の事業であり、代理店も電通ではなく、制作者も初期のメンバーとは異なるなどの点もある。初代の旅客局サービス課長・佐々木峻一による「キャンペーンの下地のような形で」という証言もあり、テスト版という位置づけとも捉えられる。 アンノン族に代表される女性客が増えるにつれ、国鉄のキャンペーンも女性を重視していった。1977年1月6日に始まった「一枚のキップから」は長続きしなかったが、1978年11月4日には山口百恵が歌う『いい日旅立ち』をキャンペーンソングとした「いい日旅立ち」が始まった。また1980年には国鉄全線完乗を目指す「いい旅チャレンジ20,000km」が始まった。 1980年を過ぎると、国鉄の累積赤字が社会的に大きな問題となりはじめ、労使間の紛争も多発するようになった。さらに航空網や高速道路網の整備の進捗や、モータリゼーションに伴うマイカーの普及に加え、国鉄運賃・料金の値上げが毎年のように行われたこともあり、私鉄や航空機、自動車などに対する競争力が低下し、俗に「国鉄離れ」の呼ばれる現象が起きるようになった。そのような状況下で、国鉄は赤字ローカル線(特定地方交通線)の廃止・経営移管を進めるようになり、このような大型キャンペーンも下火になっていった。
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