働く母として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/07 08:37 UTC 版)
結婚後も家庭と仕事の両立を目指す道を選び、1949年(昭和24年)には娘久美が生まれた。研究をする女性は一生独身に限ると言われていた時代、仕事と育児を両立するためには多くの難関があった。第1の難関は産休明けから乳児期の保育であり、第2の難関は子供が歩き出してから小学校に入るまでの育児であった。第1、第2の問題解決のために職場内(医学部内)の託児所作りに奔走したが失敗。両親や従妹の献身的協力と、知人の幼稚園の園長夫妻の協力によってこれらの問題はをどうにか解決した。しかし、働く母の育児問題で最も大きな難関は小学校入学後であった。放課後「重要な心身の発達期に、親の代わりの保護者もなしに子供を放任しておかなければならない」ということである。その問題解決のヒントになったのが、キュリ―夫人の研究所内の学校だった。彼女は研究所内に自分の子供たちを含めて子供の小さな教育の場を作ったという。そこで、小学1年生になる子供を持つ働く母親に呼びかけて賛同者を募り、子供好きの研究者や専門家である4人の先生と11人の生徒で放課後の学校(学童保育の歴史ではそのはしりと位置づけられている)が始まった。子供たちが「すずめの学校」と名付け、小学校4年生になるまで続けられた。
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