保内商人の終焉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 03:28 UTC 版)
16世紀に入る頃から上記のように、戦国大名化した守護六角家の権力が次第にこの地域にも浸透しており、各郷の地侍層も六角家の被官となる者が続々と現れる。天文18年(1549年)には六角定頼が居城観音寺城下の石寺新市(現・近江八幡市)に楽市を開設(楽市・楽座の初例とされる)。石寺新市は従来保内商人が誘致されて保内町を形成するなど、特権を認められていたが、楽市は例外とされた。このような新儀自由商人と戦国大名の直接の結びつきは、既得権益で保護された中世的商人を淘汰し、大山崎油座などの大規模の座が衰退していく契機となったが、各地への流通ルートを確保し、強い団結を保った保内商人の活動は、戦国後期に至ってもなお盛んであった。しかし、天正4年(1576年)織田信長が安土城下における掟を定め、保内商人の牛馬商売の特権を停止。続いて豊臣秀吉による検地(太閤検地)を受けて以降、得珍保は近世的な村落として13箇村に再編されていったことで、保内商人の座商業は消滅した。しかし商人たちは村落に留まることなく、従来の流通ルートをさらに拡大し、近世以降も近江商人として活躍することとなる。近江商人もまた厳しい商業倫理を家訓として自らに課すことが多く、保内商人の名残りが見られる。
※この「保内商人の終焉」の解説は、「得珍保」の解説の一部です。
「保内商人の終焉」を含む「得珍保」の記事については、「得珍保」の概要を参照ください。
- 保内商人の終焉のページへのリンク