保内商人の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 03:28 UTC 版)
得珍保各郷の住民は元々農民が主であったが、東山道・東海道に接するという立地の良さから、古くより商業活動にも従事し、御服座・紙座・塩相物座などの座を結成した。14世紀前半頃までには下四郷7箇村を中心に保内商人(野々郷商人、野々川商人とも)が成立したと見られる。下四郷は畑作地域で上四郷に比べ水利が悪く、水田化が遅れたことも、下四郷の者が商業に従事するきっかけとなった。彼らは琵琶湖西へ出て九里半街道・七里半街道を若狭小浜港へ出るルート、鈴鹿山脈の八風(はっぷう)街道・千草街道を越えて伊勢桑名港へ抜けるルート、東山道を美濃へ向かうルートなどを利用し、東は美濃・尾張から西は京都まで広い行商区域を網羅しており、美濃・伊勢・若狭の物産を京・近江へ運んで売るという、畿内近国の流通を担っていた。取り扱った商品としては美濃紙・陶器・木綿・麻苧・呉服・馬・塩・干魚などが中心であった。宮座の掟以外にも、商人としての心得を厳しく定めた掟書が定められている(永正15年(1518年)保内南郷の6箇条の商売掟などが残されている)。
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