併用軌道線へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/31 13:51 UTC 版)
北大阪線転出後の1923年には、1形の総括制御車を291形に改造する際に51 - 60の台車及びモーターを291形と交換することになった。台車はBrill 27MCB-1で変わりなかったが、主電動機がGE社製のGE-200C(1時間定格出力29.8kW)となってパワーダウンしたことから、従来のままの61 - 66と形式を分割してそれぞれ51形と61形となった。1926年には51形10両の制御器が芝浦製作所製のRB-201Aに換装された。1930年には北大阪線のレールを国道線のレールと同じT型レールに交換したことから、車輪及び車軸をそれに対応したものに交換している。 その後も51形は501形や後継の31形とともに北大阪線に、61形はトロリーポール1基搭載に改造されて甲子園線に、としばらく国道線を除く併用軌道線各線で使用されていたが、1937年の71形の新造に伴い、61形65・66が同年に廃車されたのを皮切りに、翌1938年には63・64が「アミ電」こと121形123・124に改造され。 この時点で51形は51 - 60の10両全車が残り、61形は61・62の2両が残るのみとなったことから、これらの車両を201形を新造することによって置き換えようとしたが、新造計画が戦時体制に入った影響もあって遅々として進まぬ間に、1941年に満州国の新京交通へ56 - 60の5両を供出、譲渡した。 供出した5両の代わりに91形3両の新造が認められ、残った51 - 55・61・62の7両も201形の増備で置き換えることを計画していたが、戦局が悪化するにつれて置き換えもままならず、老朽化した車体を酷使して走らせざるを得なかった。終戦直後まで走り続けていた51・61の両形式であるが、91,201両形式が就役するにつれて休車状態となり1948年に廃車、51・61形の消滅とともに阪神電鉄の営業用木造車も消滅した。
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