作成にいたる背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 07:37 UTC 版)
「孝経」も参照 『孝経』は、焚書坑儒の後、「古文」・「今文」と呼ばれる二種の系統のテキストに分かれ、「古文」には孔安国による伝、「今文」には鄭玄による注が付けられた。南朝では、梁に孔伝と鄭注がともに国学に建てられたが、侯景の乱で孔伝は滅び、その後の陳、また北斉・北周では鄭注のみが用いられた。 ところが、古文孝経(孔伝)、今文孝経(鄭注)ともに偽書ではないかという疑惑を抱えており、特に唐代に入ると、どちらを『孝経』の正本に取るべきかという論争が行われるようになった。そこで、唐の玄宗は、開元7年(719年)に古文派と今文派の両派の儒学者を集めて論争を行わせた。特に、古文派の劉知幾は鄭注が偽作である十二の理由を挙げて強力に古文孝経孔伝を推したが、今文派の司馬貞は古文孝経孔伝の方を偽作とし,決着は付かず、両者ともに行用すべしという結論になった。この結果を受け、学識に優れた玄宗が、王朝としての統一的な解釈を示すため、自ら公定の注釈書を作成することとなった。 なお、現代では、孔安国伝は偽作とされる(偽作時期、偽作者には諸説ある)が、鄭玄注の真偽はいまなお定論を見ない。
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