佐野ハイカラ、和泉をライバル視
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/24 23:43 UTC 版)
「大阪府立和泉高等学校」の記事における「佐野ハイカラ、和泉をライバル視」の解説
1901年(明治34年)に泉南郡立の高女が開設される際、設置場所について、すでに岸和田村に府立岸和田中学校(現・岸和田高校)があったことから、中等教育機関の集中を避けるためとして佐野村(現在の泉佐野市)への設置を推す声も、旧日根郡の関係者を中心に強くあった。 その後、泉南高女も岸和田村に開校となり、佐野村は1903年、佐野尋常高等小学校(現・泉佐野市立第一小学校)に併置された裁縫教授の特別学級を、佐野村立裁縫学校として開校させた。この学校が1921年、実業補習学校に組織変更されて佐野女子実業学校となり、その後、佐野家政女学校と改称。1928年(昭和3年)に大阪府佐野実科高等女学校に、1934年4月、実業学校(甲種職業学校)大阪府立佐野高等実践女学校となり、1941年3月に大阪府立佐野高等女学校となった(現在の大阪府立佐野高等学校)。 こうした経緯もあり、泉南高女・岸和田高女(現・和泉高校)への強い対抗意識を、佐野高女(現・佐野高校)は持っており、1940年(昭和15年)度の卒業生の一人は「岸女は勉強中心、佐野は実践を教える学校で私たちは羽織まで縫いましたよ。そうそう、佐野にはハイカラさんが多くて、当時の(旧制)中学生(の男子)にもモテたみたいです。制服も岸女よりずっとスマートで、スカートのヒダも細かくて」と語っており、裁縫技術や制服の着こなしの点で、岸女をはじめ各高女よりも自分たち実践女学校の方が優れている、と誇りを感じていた。
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