仰木彬との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 08:05 UTC 版)
1988年から近鉄監督に就任した仰木彬は、投手起用の不規則さなどから、投手コーチの権藤や一部の投手との確執があった。 吉井については、同年10.19のダブルヘッダーでリリーフ登板した第1試合、9回終了前に阿波野に交替させられ、ロッカーのドアを蹴り上げていたという。 1989年、近鉄は、マジックナンバー1で迎えた10月14日の福岡ダイエーホークス戦(藤井寺球場)で、仰木監督は、そのシーズンも通して抑え投手を務めていた吉井ではなく、阿波野を優勝決定の場面で投げさせた。吉井は、グラウンドでの胴上げをよそに、室内練習場で用具に当たり散らして、権藤投手コーチが懸命に慰めた。シーズン終了後、権藤はまだ契約年が残っていたにもかかわらず退団した(仰木と権藤の確執については、権藤博を参照)。 仰木著『燃えて勝つ』では、10.19や1989年の優勝決定などに関する記述で吉井への言及がほとんどない。しかし、2005年、前述のとおり、オリックスの監督に就任した仰木が吉井をオリックスに再入団させた。 上記のように仰木の厳しい起用法に反発心を抱いたこともあったが、根本的には後述のように仰木に感謝と尊敬の気持ちも抱いていた。プロ4年目の夏当時ヘッドコーチだった仰木から「吉井、来年はお前を良い場面で使うからな」と言われ、もちろん仰木が監督になるとは聞かされておらず 『「この人、何言っているんや」って。でも、その年のオフは何か暗示にかけられるように、大活躍するイメージができていました。この言葉に支えられ、練習に取り組み、キャンプ、オープン戦でも充実した日々を過ごすことができ、その年実際に活躍し、やっとプロ野球選手になれたと思えました。仰木さんは、試合では厳しい使い方をするんですが、打たれた後などに球場内を走っていると、いきなり一緒に走ってきて並走しながら「どや、疲れたか?へこたれるなよ!」と言ったりしてくれるなんです。だからこの人のために頑張ろうと思わせてくれる方でしたね。』 と語っている。 その後吉井は、日本ハム投手コーチであった2011年に、指導者の立場になって「あの頃の仰木さんや権藤さんが行っていたことが初めてわかったような気がする」と語った。
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