人物比定及び出自について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 06:21 UTC 版)
「村上頼勝」の記事における「人物比定及び出自について」の解説
諱は頼勝、あるいは義明(よしあき / よしあきら)。通称は初め政之助、のち次郎右衛門尉、周防守を用いた。発給文書などから確実な諱は頼勝で、『東武実録』他の江戸中期以降の諸書には義明とあるものの、その典拠は不明。 村上藩村上氏の当主については、頼勝とその養嗣子忠勝の二代がともに周防守を称したためか両者の事績が混同され、義明一代であったかのように記述されることが多かった。比較的成立の早い『東武実録』(1684年)では元和4年(1618年)に改易されたのは二代目の村上周防守で先代周防守の養子とするが、『藩翰譜』(1702年)は「この家が一代であるか二代であるか覚束ない」とし、さらに下った『断家譜』(1809年)は元和4年に改易されたのを義明としている。現代に至っても、高柳光寿・松平年一共著『戦国人名辞典』(1962年)などの公刊書が頼勝と忠勝を同一人として扱う。 しかしながら、元和2年(1616年)頃と目される村上藩家老村上吉兵衛の羽黒神社宛書状によれば忠勝の母は当時健在であって、頼勝の母が天正13年(1585年)頃にはすでに死去していたと推定されること(後述)から、頼勝と忠勝は別人とせざるを得ない。慶長17年(1612年)以降の発給文書は全て「村上周防守忠勝」によるものであり、頼勝の名はない。横山貞裕は、頼勝が忠勝に改名し花押まで更改したとは、当時他に例がない以上認め難いとする。 頼勝は信濃村上氏に出自するものとされるが、その系譜は判然としない。『断家譜』では村上義清女と戸田武蔵守(勝成、重政)の子であり、外祖父である義清の養子に入ったものとする。『系図纂要』や『藩翰譜』では義清の長男である村上常陸介義利の子(つまり義清の孫)とされる。『藩翰譜』は義清の子であることを疑う一方で、伊予村上氏の村上二郎の後胤ではないかとも推測している。頼勝は次郎右衛門尉を称し「丸に上の字」の家紋を用いているが、これらを伊予村上氏と結びつけたものか。『寛政重修諸家譜』には記述がない。 横山は、諸書が村上藩主の村上周防守を一代であると解したために、その先代の村上周防守を村上義清に当てはめたものと推測している。『断家譜』は、頼勝と忠勝の外孫関係を誤って義清と義明の外孫関係としてしまったのであろう。
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