五百羅漢図の制作へとは? わかりやすく解説

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五百羅漢図の制作へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 07:34 UTC 版)

狩野一信」の記事における「五百羅漢図の制作へ」の解説

了瑩は嘉永6年1853年)に「五百羅漢図」制作発願。一信は了瑩の後援により「五百羅漢図」制作専心するため、芝浜松町住居決めた推測される。翌3月了瑩は病のため源興院を退くが(同年9月没)、後継の慎誉亮迪上人が「五百羅漢図」事業受け継ぎ制作資金3000両を用意する。一信は大覚寺から、安政3年1856年)に法橋文久2年1862年法眼得ているが、これも了瑩上人、または亮迪の後ろ盾あったか、あるいは大覚寺末寺で一信の作品が残る成田山新勝寺関与があったことが想定できる。 一信は亮迪と同行して鎌倉光明寺円覚寺建長寺羅漢図や、本所羅漢寺五百羅漢像などを自作活かすべく拝観した。他にも一信は、増上寺学侶養鸕徹定日野霊瑞、大(義寛)に指導受けている。彼らは、日本羅漢図では伝統的規範となっていた、中国李龍眠や張思恭、日本明兆雪舟らの羅漢図は、法衣器物中国のもので羅漢本来の姿表していないと批判しインド古儀適ってないといけないと説いた。ただし、彼らの言うインド古儀中身についてはまだ検討されておらず、「五百羅漢図」には当時庶民流布していた仮名書き絵入りの『往生要集版本影響指摘されているが、幕末明治という動乱期における異国異界への意識反映されていることが予想される。 しかし、一信は多年に渡る大作制作うつ病にかかり、「五百羅漢図」完成間近96幅、一説90幅または80幅)で数え48歳没した遺体増上寺の子安蓮社葬られた。法号法雲院法眼徳誉一信居士

※この「五百羅漢図の制作へ」の解説は、「狩野一信」の解説の一部です。
「五百羅漢図の制作へ」を含む「狩野一信」の記事については、「狩野一信」の概要を参照ください。

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