二六三空
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1943年11月23日、第二六三海軍航空隊(豹部隊)に配属。263空は内南洋防衛のために松山で開隊され、熟練搭乗員は少数で大半は甲飛10期などの若年搭乗員だった。1944年2月末から3月中旬の間に263空の零戦49機がグアムに進出。戦闘で基幹搭乗員は戦死し、笠井ら若年隊員が中核となった。1944年(昭和19年)4月中旬に空戦の神様と呼ばれた杉田庄一一飛曹が着任、笠井は杉田の列機を務めた。杉田は着任した日に「俺の愛する列機来い」と笠井らを呼び酒盛りをした。笠井は、杉田を静かな豪傑肌の人と評し、軍生活を通じてしっかりと空戦の指導をしてくれた先輩は杉田だけであったと回想している。特に空戦では編隊から絶対に離れないことを教え込まれ、落そうと考えず一番機が撃ったら照準器など見なくてもいいから一緒に撃て、それで協同撃墜になると言われたという。また「捻り込み」など説明の難しい技術も編隊訓練で杉田の後に続いていくことで覚えられたという。 4月25日、グアムに飛来したB-24の迎撃に参加。これが笠井にとって初の戦闘となったが、距離感が掴めず遠方から射撃してしまい、帰還後に杉田から厳しく叱られた。5月1日一飛曹昇進。 5月末、263空は連合軍のビアク島上陸に応じ、ハルマヘラ島カウ基地に進出。しかし、米機動部隊がマリアナ諸島に接近し、ペリリュー島へ引き返した。6月18日、サイパン島沖の米上陸艦艇への攻撃に参加。笠井らは30kg爆弾2個を抱えペリリューからヤップ島経由で向かい、爆弾投下に成功した。しかし、敵の対空砲火が激しく、多数の敵艦載機にも追われ、笠井は編隊から逸れたが、無事にグアムへ帰還した。 6月、あ号作戦により263空は壊滅。笠井ら搭乗員は輸送機でペリリューに撤退した。
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