久保田藩・久保田新田藩・新庄藩・弘前藩・本荘藩・矢島藩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 03:02 UTC 版)
「秋田戦争」の記事における「久保田藩・久保田新田藩・新庄藩・弘前藩・本荘藩・矢島藩」の解説
久保田藩では藩土の3分の2が戦火にかかり、人家の四割が焼失した。奥羽鎮撫使に随従した15藩の約1万の将兵、新庄藩・本荘藩・矢島藩から逃亡してきた藩主・藩士の家族のまかないをすべて久保田藩が負担することになり、推定総額675,000両(官軍・藩兵推定15,000人の動員費375,000両、被災領民の年貢免除分50,000両余、その他の軍諸給金25,000両、銃器購入費100,000両、汽船購入費70,000両、その他軍需品購入費55,000両)の戦費を消費した。 明治2年(1869年)6月、新政府から賞典(永世禄)として、久保田藩へ2万石、新庄藩へ1万5千石、弘前藩と本荘藩へ1万石、矢島藩へ1千石が、また岩崎藩(久保田新田藩)へは賞典金(一時金)として2千両が下賜された。これらは戦費・戦災に対してまったく見合わない少額であり、藩士・領民には廃藩置県後も新政府に対する不信感が残った。 秋田戦争で久保田藩士たちと共闘し、新政府軍では最多の戦死者を出した佐賀藩(およびその支藩である小城藩)藩士たちは、秋田市八橋の全良寺官軍墓地、新屋の忠専寺・天龍寺・葉隠墓苑、能代市二ツ井町の清徳寺に、地元住民の手によって葬られた。その後、秋田市と佐賀県武雄市との間で交流が始まり、戦後150年となる2018年には秋田・武雄両市市長出席のもと「秋田市及び武雄市の交流に関する協定書」が締結。秋田市と武雄市の間では現在も様々な取り組みが行われている(後述)。
※この「久保田藩・久保田新田藩・新庄藩・弘前藩・本荘藩・矢島藩」の解説は、「秋田戦争」の解説の一部です。
「久保田藩・久保田新田藩・新庄藩・弘前藩・本荘藩・矢島藩」を含む「秋田戦争」の記事については、「秋田戦争」の概要を参照ください。
- 久保田藩久保田新田藩新庄藩弘前藩本荘藩矢島藩のページへのリンク