久保田藩時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/25 19:02 UTC 版)
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、義宣はかねてから懇意にあった石田三成の西軍に付こうとしたが、時流を見ていた父・義重は徳川家康の東軍に与するように述べ、父子は対立する。このため、義宣はどちらにも付くともいえない曖昧な態度を取り、戦後の慶長7年(1602年)に佐竹氏は出羽久保田20万5000石に減転封された。この減転封に伴い、頼久も秋田に赴いた。そのため、小貫氏・小野崎氏は茨城県、秋田県に多いといわれ、茨城県には小貫の地名を冠した土地や建物が多く、また秋田藩には小貫家が列名している。 慶長8年(1603年)、死去。佐竹義重とはほぼ同時期に生誕・死去しており、佐竹氏全盛期を築き上げた義重の行跡を共に経験した。
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